保護者の集まりが苦手すぎる。
保護者会とかPTAとか、苦手になった。
親しくしていた保護者の方と気まずくなったら苦手になった。
もうこんなに気持ちが掻き乱され思いはしたくない。
年々、苦手なことが増えていく。戸籍上の配偶者のことも苦手になっていく。結婚する前は、あんなに仲良しだったのになぁ。なぜ、気持ちを打ち明けることが出来ない相手になってしまったのだろう。バカにされたくないし、弱さをみせることで下にみられたくないって、私が思うからかも。
配偶者には、きちんとして、とか、ちゃんとして、とか、土日のたびに言われて嫌になる。
きちんとって、それが出来ないし、そうしようという気力もないのだ。
今日は夜寝る前に見たテレビが面白かった。今日1番気持ちが楽になった時間だった。無責任に楽しめた。今日の昼間は親の責任、大人の責任に窮屈さを感じた。子育てが辛いなって感じる時が多い。今日の夕方は酷かった。子どもが泣き、喧嘩し、ぐずぐずしていると、私が疲れる。誰もいたわってくれることはなく、一人で落胆した気持ちを処理しなければならない。処理が追いつかない時もある。
PTAとか保護者の集まりは、子育ての精神的な支えになるどころか負担に感じることがある。私はつるむ人もおらず、顔見知りの人たちの中で孤独を感じるからだ。全く知らない人ばかりの場所での一人と、顔など何かしらの情報を知っている人たちの集まりの中で一人でいるのでは、後者の孤独感が半端ない。ときに病むレベル。私が仲良くなりたい人がいて、相手の人は仲良くしなくてもいいなというすれ違いがあったりすれば、色々病む。群れたい、必要とされたいって時にその想いが叶わない時の切なさ。叶っている人への羨望のような嫉妬のような。
とにかく、今日は精神的に疲れた。人の顔色を気にすることに疲れた。私と決して目の合うことの無いテレビ。気持ちが楽になった。
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最近、人間関係が良くない。
表面ではニコニコしているけど、陰でネガティブなことを言われているみたい。
ひとりになりたくなくて、陰で言ってるであろう人にすり寄っていたけれど、なんかもう私はひとりであることを認めようって思う。孤独な子育てでもいいや。
特別に仲の良い、なんでも相談できるような友人はいないと認める。
嫌われている、と認める。
夫は条件付きばかりで、基本理由なく物理的には何もしてくれない、と認める。
精神的に何があっても、自分で這い上がるしかないのだ。だから私は予防のためにも病院へ行く。
そんなふうに受け入れたら、朝布団の中で身体が震えたりものすごい孤独で怖くなったり色々と不快だったのが少しだけマシになったような気がする。
陰で私を話題にしてネガティブな話をしてるって、私はその人たちが秘密を共有して余計に仲が深まる手助けをしているようなものだ。
私はいるかいないのかわからない、空気のような存在でありたい。話題にあがらないような人でありたい。
日々淡々とひっそりと暮らそう。
頑張って、よかったことをさがす。
今日も夫に怒鳴られたし、こどもは言うこときかずに反抗するし、ママ友には私より好きなママ友がいて嬉々としているし、私の人間関係はいつもあまりうまく行かないことが多い。
多いあまりに、自分のせいだと思えてくる。いや、きっと自分のせい。でも、改善方法が分からないんだ。それとも、私は人と関わるのが大の苦手なのかもしれない。
それでも今日は、お腹をすかせることもなく、お湯の出るシャワーで汚れを落とし、あたたかい布団で眠ることはできる。
精神的には参っているが、物質的には満たされている。
とにかくそのことに感謝して眠るとしよう。
人に好かれるのは私にとっては難しいようだ。ならば邪魔にならないように、そよ風のような存在であれたらいいなと思う。
空気がもうすでに秋
夏から秋に変わる、この季節の変わり目の雰囲気が苦手だ。
暑いような、日差しが夏に比べて弱いような、蒸すような、涼しいような、、、
謎にものがなしい気分になる。
秋生まれの子どもがいるので、臨月の辛さ、病院での孤独を思い出すのかもしれない。
もっと前に記憶を遡れば、秋は結婚式場のバイトが楽しかった。自転車で通勤していたから、涼しくて移動しやすかったからかもしれない。暑すぎず、寒すぎず、働きやすかった。そんな理由かもしれない。
その時は秋に変わる雰囲気が苦手になるなんて、予想も出来なかった。
それほど、私にとって妊娠はあまり良い思い出ではない。子どもたち、ごめん。でも、すごく苦しかったし、孤独だったなぁ。
でも今日はジョギングをしてみた。気分がいい!ツイッターで、「筋トレ、プロテイン、瞑想、で、メンタルが改善した」という投稿をみたので、信じてみることにしたのだ。
で、筋トレは苦手なのでジョギング。筋トレもそのうちYouTubeをみながらやってみよう。
メンタルが改善すると良いことは、子どもに向き合う気力が出て来ることだ。
寝る前に絵本を読むことも、仕上げの歯磨きをするのにも、私は気力がいる人だ。すでに10年くらいやったりやらなかったりだが、ダラダラとここまでやってきて、なんかもう飽きた。だから気力が必要だ。
気力があるからといって、子ども相手に商売している人のように元気にテンション上げて本を読んだりするわけではない。無の境地で淡々とこなすのである。今のところ虫歯治療が必要な子はいないので、良かった。
子どもたちの寝顔はかわいい。
明日こそ穏やかな一日であるように、うちの中の誰も叫ぶことのないように、と祈りながら寝床に入るのである。
子どもに「怒鳴る」だけはしたくない。
子どもってどう育てたらいいかなんて、わかっていない。ただ、自分がこんな親がいてくれたらなぁという気持ちはある。しかし、せっかく大人になったのに子供の頃にできなかったあれこれを子育てのためにあきらめているところもある。子どもの頃は親のお金で親の顔色を多少は伺いながらだったが、大人になって家族ができると夫の顔色を伺って、子ども時間に合わせたりと制限から解放された感じはしない。ま、それは自分の選んだ道である。受け入れようではないか。
自分の選んだ道が「あ、自分には合わないことだったんだ」と気付いたけれど、元に戻れない時、その道を楽しむ方法を生み出すしかないのかもしれない。特に、命を宿したものであれば余計にそう思う。昔、飼い猫を家族の中のペット反対派の方々に捨てられて布団をかぶって泣きまくったことがあるので、ペットであっても途中で捨てることはしたくない。
さて、子どもと接するときのことである。できるだけ、できるだけ冷静さを持ちたいと思っている。冷静より少し気持ちがあがっている、くらいのテンションでいたい。そして、可能な限り「怒鳴る」を減らしたいと思っている。夫が私からしたら結構些細な事で怒鳴る系の方だ。先日も、子どもたちと一緒に行った公園で3歳のうちの子を叱っていた、というよりも怒鳴っていた、と感じた。せめて3回目くらいまでは冷静に意見を伝えて欲しい、と私は夫に言ってみたが、本人がそうしようと思わない限りは変わらないだろう。
最近は子育て本をあまり読まなくなったが、以前何かの本で「幼い子どもを怒鳴っても恐怖を感じるだけで、自分の何がいけなかったのかを理解することができない」ということ読んで、ですよね、と思ったことがある。叱るときは、その子どもの後ろから体に触れながら耳のそばで小さい声で話す、という方法もあるくらいなのだ。人は大きい声には耳をふさぎ、小さい声は耳をすまして聞こうとする、とも聞いたことがあるし、実際私もそうだなと思った。私の遺伝子を持つ子どもならば、大きな声が苦手ということも遺伝している可能性がある。よって我が子には、怒鳴るという叱り方はあわないのだろうな、と思っている。
しかし現実は・・・怒鳴りたくないけれど、怒鳴ってしまうことがある。自分が疲れているときの子どもたちのケンカの声がうるさいときとか、子どもたちがひどい言葉で相手をののしっているときとか。それに毎日注意しても、脱いだ靴下を洗濯かごに入れないとか、何年言っても手に持っている物を投げるとか。そういうことが続くと叱ることも諦めてきてしまう気持ちとかもわかる。怒鳴りたくなる気持ちもわかるし、通り越してどうでもよくなってくる気持ちもわかる。
可能な限り「怒鳴る」はやめたい。怒鳴る大人になってほしくないのでね。大人になった子どもたちに、怒鳴られたくもない。頑張ろう。せめて子どもたちの前では、我慢強い私でいよう。
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人間の悩みのほとんどが、人間関係の悩みだとしたら、家族なんて悩みの種でしかないのではないか。20代で結婚し、子どもを出産した私にの場合は種が芽を出して双葉あたりをつけやがった気がする。
夫との関係、子どもたちとの関係、家族たるものこうあるべき、いろんなものから自由になりたい。もっと欲を言えば、もういいかなと思うまで一人の時間が欲しい。恋人関係になるとき、寂しさや将来への不安からの行動だったといっても過言ではない。当時は「勝ち組 負け組」という言葉が流行っていて、今以上にメディアの情報に流されやすかった私は、負け組にはなりたくないと思っていた。
あの時負け組だと思っていた組は、実は私にとったら勝ち組だったのではないかと、なんとなく思う。私は家庭を切り盛りできる器ではなかったのではないか。壮大なプロジェクトに挑戦してしまったものだ。
夫は出会ったころから15キロ近く肥えた。子どもたちはかわいいが、1日に最低1回は子どもの起こしたことで私の眉間にしわが寄る。がっかりしたり、焦ったり、イライラしたりは日常茶飯事である。せめて高校の家庭科で、家庭での子育てについて家事について教えてほしかった。こんなにも達成感や完結を感じられないことだなんて。子どもはかわいい。でも、かわいいだけでは育てられないと感じる。ペットじゃないのだから。産む前よりも産んだ後のほうが、責任を感じるし、自分の器の狭さに直面するなどプチ挫折感が半端ない。
戸籍上、世間的には家族と呼ばれるメンバーと暮らしてみて思ったこと。夫がいても子どもがいても、孤独な時は本当に孤独だということ。誰かがいれば、と他人に期待してもその誰かが自分の期待に応えてくれないことが多々ある。それは家族だけではなく友人、同僚、近所、対人間との間によくあるみたいだ。家族なんだから、と期待していると応えてくれなかったときに悲しいのは期待した方である。結婚して10年弱、期待通りに動いてくれないだろうなという予防線を、まずはってしまう。他人はコントロールできないんだ、って子どもの頃は半分知っていたけど、まだ期待感が残っていた。今は、期待や予想通りにいけばラッキーでそうでないことが多い、ということを身をもって何度も体験した。
しかし、まだまだ出てくる承認欲求。おせんべいみたいにバリバリに砕いて熱いお茶と一緒に飲み込んでやりたいわ。
ふくらはぎが痛いので、忘備録。
昨日は何があったんだ?
朝から、体のむくみとふくらはぎが張る痛みがある。
マッサージしてみようか。
一体なんの不快感なのだ。
やはり、寝る前のカツ丼か?
それとも昼間のデイキャンプ?高低差のある場所だったからね。
昨日の朝の畑の手伝い?
それとも日中の頭痛かしら。
色々と思い当たることはあるのだけれど、
とにかく3連休明けの朝、
小学生を学校へ送り出す準備をするために
ものすごい気合が必要である。
あーやらなきゃ。
こんな朝に、私は母としてどうなんだろう、と
母であることが嫌になっている自分に
あー疲れているのだなと思う。
こんな日もあるさ。
楽しめなくてもいいさ。
目の前のことに淡々と取り組めばいいのである。
今日も頑張ろ!