それで、それから。

甲信越地方の専業主婦の日々です。

雨だなぁ。

今日は雨。昨日はポカポカ陽気だったのに。

雨だからなんかへこんでいる。

子どもは録画していたおさるのジョージをみている。

平和だ・・・。

 

雨の日はどうしても気分が上向きにならないけど、まぁよい。と思ってただ時間が過ぎるのをまつ。そもそも2日前に色々人と話して、その考え私にはないわぁという意見をきいたので、その情報をかみ砕いて消化して排泄するまでに時間がかかっています。

詳しくは載せないのですが、ほんっとに人っていろんな考えを持っているのだなぁと思ったら、人と自分の気持ちについて話をするのが怖くなってくる。気を付けよう。私にはすぐに弱音を吐く癖がある。でも、弱音を吐きたくなる状況がある、そして、弱音を吐く場所もない。でも今は、インターネットで検索すれば悩みをきいてくれたりする公的なサービスの番号などがのっていたりするので、それを利用すればいいのかもしれない。ただ、何から伝え始めればいいものか。そういう電話でさえ勇気がいる。相手はプロで何も利害関係のない人なんだ、と思えば、気持ちの整理のために誰にも話せない気持ちを話してみるのもいいかもしれない。

相談する相手は本当に選ばないとならない。それは5年くらい前に当時60代の女性に言われたこと。でも、すっかり忘れていたり、会話のノリで話してしまったりすることがある。心を許したくなるときがある。誰かに話を聞いてほしいときがある。

 

私の祖母、90代で一人暮らしをしている。もう30年以上一人で暮らしている。私が高校生で実家にいた頃、「寂しい、話し相手がいない、鬱なんじゃないかと思う、話さないことが多いから大きな声が出にくい」などと言っていた。その時はあぁそうなんだと思って、そのまま。私は学校へ行けば誰かに会えるし、話す機会もあるし、人の目は気になってはいたが、寂しいと感じることはなかったかもしれない。高校生なりの未来への不安とか、そういうのはあったけども。

今専業主婦で、ほぼ子どもとしか話さない日々である。また、大人と話す機会があっても子どもが一緒だったりして、話が中断することや子どもの機嫌をみながら話さないとならなくて、そんなことが何度も続くと子連れで人と話すのがおっくうになってくる。すると、積極的に人と関わらなくなる。みずから選んだ寂しさかもしれない。

ただ、30代の私だけれど祖母の寂しさはこんな気持ちだったのかなぁ、などと想像する。そして、寂しいって素直に言えるっていいなって思う。我慢が美徳の時代を生きてきたと思うが、肉体的な労働的な我慢はあったとしても、心は自由というか。寂しいとか悲しいとか辛いとか疲れたとか、言ってもいいんだよね。ネガティブな言葉を言うのはタブーって話があるけれど、今はそういう我慢が美徳と思っている人もいるかもしれない。次は、寂しいとか悲しいとか辛いとか、そういう状況に自分を持っていかない流れになるかもしれない。そもそも精神的に我慢しない。そうすれば、そういう発言をしなくて済むのだから。やはり、ネットとかでワクワクとか好きなこととかが支持されるのって、流れなんだろうなと思う。

 

ワクワクも好きなこともなく、新しい刺激がないと、過去の嫌なことをもやもやと考え続けてしまったりする。時間がもったいないような気もするけれど、味わいきらないと消えていかないようだ。

 

最近は、これが私なんだから、「あーそうなんだなぁ」と思ったら楽だな、と思うようになってきた。必死になって変えようとしなくてもいいんだなぁ。

 

寂しくてもいいんだよ。寂しいを味わいきってやろうじゃないか。まずは目の前の事務的なことや家事を淡々と取り組もう。それから体をあたためて、休もう。